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文化・歴史・社会を読み解く資料室 |2017-05-01 16:32:00

アンディ・ウォーホルの「ファクトリー」

「ファクトリー」はアンディー・ウォーホルのニューヨークのスタジオの名前。1962年から1984年まで3回移転している。 ウォーホルが作品を制作するだけでなく、美術家、ミュージシャン、トランスジェンダー、俳優など自由な思想を持つ人々が集るサロンになり、さまざまなコラボレーションを行った。自主製作の実験的映画が撮影、上映された。 最初はマンハッタン、ミッドタウンの東47番街の231番地にあるビルの5階だった。家賃は年間100ドルだった。内装はすべて銀色。工場で大量生産するかのように作品を制作することをイメージして造られた。 彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作した。ビルのエレベーターまで銀色だった。アトリエの中央には有名な真っ赤なカウチソファが置かれていた。 ファクトリーに出入りして、映画などに出演した人びとは「スーパースター」と呼ばれた。

ファクトリ / The Factory

ウォーホルのスタジオ兼芸術家のサロン

概要

「ファクトリー」はアンディー・ウォーホルのニューヨークのスタジオの名前。1962年から1984年まで3回移転している。

ウォーホルが作品を制作するだけでなく、美術家、ミュージシャン、トランスジェンダー、俳優など自由な思想を持つ人々が集るサロンになり、さまざまなコラボレーションを行った。自主製作の実験的映画が撮影、上映された。

最初はマンハッタン、ミッドタウンの東47番街の231番地にあるビルの5階だった。家賃は年間100ドルだった。内装はすべて銀色。工場で大量生産するかのように効率よく作品を制作することをイメージして造られた。

彼はここでアート・ワーカー(art worker; 芸術労働者の意)を雇い、シルクスクリーンプリント、靴、映画などの作品を制作した。ビルのエレベーターまで銀色だった。アトリエの中央には有名な真っ赤なカウチソファが置かれていた。村上隆はこの「ファクトリー」のアート・ワーカー体制に影響を受け、「ヒロポン・ファクトリー」、次いで現在の「カイカイキキ」を設立して実際に現在も運営している。

なお、ファクトリーに出入りして、映画などに出演した人びとは「スーパースター」と呼ばれた。

おもなスーパースター

※はリンクあり。

ファクトリーと音楽活動

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド

ファクトリーは、ルー・リード、ボブ・ディラン、ミック・ジャガーなどのミュージシャンやトルーマン・カポーティなどの小説家が集まるサロンになった。サルバドール・ダリやアレン・ギレンズバーグも訪れたことがある。

ファクトリーでウォーホルはリードとコラボレーションをする。1965年に、ニューヨーク・ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」をプロデュース、1967年にデビューアルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』のジャケットワークを担当した。

黄色いバナナに焦点をあてたジャケットで、初期の盤ではバナナの皮の部分がシールになっており、剥がして果肉が現れるしかけになっていた。

ローリング・ストーンズのアルバムを手がける

ウォーホルは、ほかにローリング・ストーンズのアルバム『スティッキー・フィンガーズ 』のジャケットワークを手がけた。表側はジーンズを穿いた男性の股間のクローズアップで、裏側では尻を向けている。表側には本物のジッパーが取り付けられており、実際に開くことができる。

あらゆるアングラ表現を統合するイベント「EPI」

ウォーホルは1966年から1967年にかけて開催したマルチメディアイベントシリーズ「The Exploding Plastic Inevitable(通称EPI)」で、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをはじめ、美術、ロック、ウォーホル映画、ダンサー、S&Mのイメージを連結させた壮大な光景をプロデュースした。

また、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドとEPIのリハーサルやたむろする拠点としてファクトリーを利用していた。

性的マイノリティ者のサロン

アンディ・ウォーホルは、アメリカの大衆文化を芸術を通して表現する一方で、大衆社会の保守的な社会観をけなすかなのような表現もしていた。

なぜなら、ファクトリーで撮影した彼の映像のほとんどには、ヌード、ポルノグラフィック、薬物使用、同性愛、トランスジェンダーの人々が映っていたからで、それは主流の映画館で見るようなものではないマイノリティ社会の姿だったからである。

しかし、1960年代におけるセクシャリティ観として、ファクトリーで起こったフリー・ラブと呼ばれるものは、高い理想としてよりオープンに受け入れられるようになった。ウォーホルは彼の映画や演劇やイベントで、頻繁にトランスジェンダーの人々や性的にマイノリティの人々を活用した。

またドラッグを使った乱交パーティは頻繁にファクトリーで行われていた。

映画

ポルノやナイトクラブ上映中心の地下映画制作

ウォーホルは、1963年から映画の制作を始めている。一般公開する前に友人たちにファクトリーで上映して反応を見ていた。ただ、ポルノ映画のような過激な内容だったため一般の映画館で上映されることはなく、ナイトクラブやポルノシアターで一般上映された。

1963

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出典:旧サイトの掲載画像
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